2011年7月28日木曜日

たましいの救い(Ⅲ)

詩篇16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。
 まことに、夜になると、私の心が私に教える。
8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、
 私はゆるぐことがない。
9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
 私の身もまた安らかに住まおう。

この御ことばは、ダビデが歌った信仰の告白です。
霊は心であり、たましいは知性であり、体に住むと言いました。
全ては霊が、私たちの中心であり、神は霊であるとあるように、
神の似姿に造られた私たちも霊なのです。人は霊です。

ですから、ダビデが歌っている様に、ダビデに助言を下った主が、
おられるのですが、これは聖霊、神の御霊なのです。神の御霊が、
彼は、私に助言されたとあります。この私とは、彼の霊です。

ダビデの霊に、神の御霊、聖霊さまが助言されたということです。
ダビデの霊である彼の心が、私に教えるとあります。
この教えられているダビデ(私)は彼のたましいです。

ですからダビデの霊である心が、彼のたましいである知性に
教えているということです。なぜこの様なことが起こるのでしょうか?
それは、彼が告白している通りに、彼は「いつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」御霊とともに
過ごしたからです。

私たちは、このダビデよりもはるかに良い条件にあるのです。
ダビデは、彼が告白しているように、彼の前に聖霊さま置いた。
彼の右に主の御霊がおられたので、彼の霊、心は御霊から助言を
聞くことができたということです。

しかし私たちは、私たちの内に神の御霊がおられるのです。ですから
私たちの霊、心はいつも御霊で有られる聖霊さまから教えを
受けることができるのです。私たちの信仰生活のなかで、
このダビデの様に、夜静まるとき、私たちの心が私たちの知性に
教えを受けるという体験、経験する様になるのです。

よく思い巡らしてください。多くの方が信仰生活の中で体験
しているはずです。これが内なる証しと言います。
ダビデと私たちとは条件が違います。私たちの内には御霊が
宿られます。これはイエスの贖いによる特権であり、しかし
ダビデの場合は彼自身が主の御霊を彼の前に置いたので
この様な体験することができたのです。

ですから、それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
 私の身もまた安らかに住まおうと、告白し歌うことが出来たのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿